礼拝のお話し(2006年8月)要約

8月27日   栗田征雄神学生
山上の教え、幸いな人 聖書(新改訳):マタイ伝 第5章1-12節

 
日本は経済大国と同時に、世界一の自殺大国である。昨年も約3万3千人が自殺した。切腹と自殺は日本の専売特許となり、その根本的な考え方は自爆テロにも応用されているという。日本人が自殺する理由は、聖書の本当の生きている、愛なる神がいないからである。日本製のよろずの神々のために本当の神が分らず、失望し、絶望し、そして自殺する。
 日本人が幸福になるためには、聖書の教える本当の幸福の意味をまず知り、信じることである。真の幸福の意味は、イエスが山上の垂訓の中で教えており、新約聖書に溢れている。
 イエスが山に登った時、群衆は足元に座って耳を傾けた。イエスの足元に座り耳を傾けることこそ、幸いな人になる第一歩である。
イエスがマルタの家を訪ねた時、イエスの足元に座って耳を傾けたのは妹のマリヤで、イエスはいら立つマルタに、マリヤは一番良いものを選んだと言った。
 イエスは足元に座った群衆に幸いな人について教えた。「心の貧しい人は幸いです。・・・」。幸いな人となるために、「主よ、私は本当に心の貧しい者です。神も愛もなく、イエス・キリストがいないのです。あなたなしには生きて行けません。私の貧しい心を聖霊で充たして下さい」。「主よ、この罪深い者をあわれんで下さい。罪、汚れ、ねたみで溢れています。この罪人をお救い下さい」と祈ることである。
あなたはイエスの足元に毎日何度ひれ伏していますか。イエスの臨在を毎日祈っていますか。

8月20日   佐藤具子師
主がともにおられる 聖書(新改訳):ヨシュア記 第1章1-9節

1.恵みを受け継いで 出エジプト以来40年間イスラエルを導いてきた「モーセが死んだ」。民は不安と恐れに直面した。「モーセのような預言者は、再びイスラエルに起こらなかった」と言われたモーセに、優れた指導力があったのではない。モーセは、つぶやきの絶えない民のために神にとりなし続け、約束のみ言葉を握って彼らの中に生き続けた。
 クリスチャンの存在の大切さを思う。そしてヨシュアが後継者として選ばれた。「約束の地」はヨシュアの能力、戦力で勝ち取るのではない、神がすでに与えていて下さる。だから立って行きなさいと。主の業はいつでも、主が始め導いておられる。
青梅恵みキリスト教会は昨年一年間、ひとりひとりが主の前に立ち、信仰の再確認をし、主に導かれて歩んだ。その恵みの延長線上に現在、新しい方々が加えられている。

2.主がともにおられる 神はヨシュアに「あなたの一生の間(=あなたの生涯の一日一日すべて)、あなたとともにいる。あなたが行く所どこにでも」と約束された。
 どんな環境、困難な立場に立たされても「あなたは栄える」。それは繁栄や成功と同時に、時と場合にふさわしく行動することができるということでもある。そのために主の教えを喜び、常にこころの糧とさせていただこう。
 「主がともにおられる」恵みの生涯に、私たちはすでに導き入れられていることを確信して歩もう。私たちの人生の主人公は、ともにおられる主である。

8月13日   佐藤義則師
キリストの内住 聖書(新改訳):ガラテヤ書 第2章19-21節

 私には、「キリスト教信仰」ではなく、「キリスト信仰」と呼ぶこだわりがある。「キリスト教信仰」というと、教えや知識を学び、そして修養、努力をするという印象がある。それに対して「キリスト信仰」と言った場合は、復活して今も生きておられるキリストと出会う、そしてキリストの語りかけを聴くという体験を言う。信仰は、知識の集積ではなく、キリストと出会い、語りかけを聴く体験である。
 ▼「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(20節)。このみことばも単に知識であれば、何の意味も持たない。体験してこそ、尊い祝福となる。私たちが何か神に喜ばれる、良きことができたとすれば、それは私たちがしたことではなくて、内に住むキリストがそれをして下さったのである。
 ▼きよい人は誰か?それは主によってきよめられた人である。それでは、どうしたら主にきよめていただけるのか?それは自らの真相を知ることである。自分が生まれながらの罪人であり、自分の罪深さ、弱さを徹底して知らされることである。そして、その自己をキリストに明け渡す。その時、主は共に十字架にかけて下さるのである。
 十字架にキリストと共につけられ、自我が死ぬ。そうすれば、キリストがわが内に宿り生きて下さるのである。キリストの内住によって、本来の自己が回復される。それが聖化<ホーリネス>である。

8月6日   佐藤義則師
十字架と自我の死 聖書(新改訳):ガラテヤ書 第2章1-20節

 日本人ほど勤勉な国民はない。そのようなわれわれ日本人にとって、ただ信じるだけで救われるということは受け入れがたいものがある。そこには東洋的な因果応報の思想の影響も根深くある。だから、「信仰義認」を貫き、そこに踏みとどまって生きることは難しい。
 ▼しかしそれは、単にわれわれ日本人に染みついた習性に由来するということでは片づけられない。何故なら、律法主義の根底にあるものは、誰もが持っている自我、即ち自己中心的な我だからである。自分の正しい行い、折り目正しい信仰生活をすることによって神に自分の義を認めさせようとする。それが自我である。
 ▼自我がキリストの十字架と共につけられて死に、キリストの復活に結び合わされることによって、われわれは自我より自由にされる。この経験こそ聖化である。それ故、信仰義認の徹底は聖化によって得られるものであり、聖化とは信仰義認の徹底である。
 ▼人は人間関係で悩む。その元凶が自分自身にあることに気づくことが、解決の道の第一歩である。どんなに修養努力をしても自我は改まらない。自我はキリストと共に十字架につけられることによってのみ、自由にせられる。自我に死に、キリストにつながれるなら、家庭が、職場が、教会が生かされる。何よりも自分が生かされる。自我に死ぬことは自分というものがなくなることではない。むしろ、自我に死ぬことによって本来の自分自身、人間性を回復するのである。