礼拝のお話し(2006年9月17日)全文

9月17日   佐藤義則牧師
日曜日は教会へ」 聖書(新改訳):マタイによる福音書第11章28-30節

               (一)
 徳川家康の名言に、「人生とは、重き荷を背負いて遠き道を往くが如し」というものがあります。日本人であれば、誰もが知っている言葉であり、「ああ、確かに人生とはそういうものだ」と深いうなずきと共感を覚える言葉です。それ故、この言葉は、われわれ日本人の人生観そのものを表わす言葉であると言っても過言ではありません。
 ただこの言葉がひとつの人生観であると言うには、きわめて重要なことが欠けているように思われます。それは、「どこに行くのか」という行き先が述べられていないことです。重き荷を背負って、遠き道をたどってどこへ行くのか?つまりは、何のために重き荷を背負い、何のために遠き道を行くのか?その目的なるものが記されていないのです。しかし、われわれ日本人は全くそのことに疑問をいだきません。なぜなら、われわれ日本人にとって「重き荷を背負う」こと自体が、「遠き道を往く」こと自体が目的になり得るものだからです。

               (二)
 われわれ日本人は、迷わず何の疑問も持たず、ひたすら重き荷を背負い、遠き道をたどってどこまでもどこまでも進んで行きました。その勤勉さが、何もかも失い、焦土と化したあの敗戦後の日本を復興させ、高度経済成長期を経て、今日の経済大国日本を築き上げてきました。今、われわれが何不自由のない豊かな暮らしができるのは、そのような戦後の復興と産業の発展を担ってきた人々のたゆまぬ労苦によるものであり、心からの敬意を表したいと思います。
 しかし、バブル経済崩壊以後、日本は大きく変わりました。かつては安定した生活を願って大手の企業に就職することを夢見ましたが、そのような大企業が軒並み倒産したり、社会的信用を失ったりしました。日本の経済界を取り仕切ってきた金融業界も厖大な不良債権を生み出し、倒産し、あるいは経営統合せざるを得ませんでした。それはちょうど小惑星が地球に衝突したような衝撃にも似た出来事でした。一機に破壊が起こり、その後遺症で粉塵に大気が覆われ、太陽の光が地上に届かなくなります。日本の経済社会も光の見出せない慢性的な不況が今も続いています。そうした中で年功序列などの旧い労働環境が改められ、欧米の雇用制度が取り入れられて、リストラの嵐があらゆる職場に吹き荒れました。本来、人のためにある企業が、そこで働く人とその家族を守る責任を放棄してどうして存立できるのでしょうか。

               (三)
 さて、だいぶ話がそれてしまいましたが、今日ほど、何のために重き荷を背負い、何のために遠き道を行くのか?を考えるべき時はないのではないでしょうか。
 あの高度経済成長期には、「モーレツ社員」と言われる人たちがいました。今も遅くまでしかも手当なしで猛烈に働いている人たちがいますが、あの時代の彼らのような勢いというか、覇気はありません。希望に目を輝かせて、生き甲斐を感じて働く人は皆無に等しいのではないでしょうか。
 今日、家庭にも暗い影を落としています。子育てに疲れてという、ただそれだけの理由によるものではないでしょうが、子供を虐待する事件が相次ぎました。
そのようなわれわれ日本人に向かって、主イエス・キリストは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と大手を広げて招いておられるのです。

               (四)
 聖書の第一ページを開くと、そこには「創世記」という書があって、その1章1節には「初めに、神は天と地を創造した」とあります。神は6日間で天地万物を創造されました。そしてその創造の6日目、その最後にわれわれ人間をお造りになったのです。神は私たちひとりひとりに手をかけ、その英知を働かせ造られました。神は6日間で万物を造られ、7日目に休まれました。
 これに基づいて、神は「安息日」というものを定められました。西洋暦では日曜日が休日と定められていますが、それはこの「安息日」から来ています。人は6日間働けば、必ず7日目は休息するということです。このことは、皆さんにとってもお馴染みの「モーセの十戒」の第四戒にかかげられる戒めです。「十戒」は、人として最低限守るべき掟であって、これを犯すなら死に値するという厳命です。どうしてそのように重い戒めなのでしょうか?それは、人間はそのように造られているのであって、その創造の原理に反するなら、取り返しのつかない問題が生じてくるからです。
 一週間のうち一日、休息をとらないと、先ず体に支障が起こります。「過労死」ということが言われ久しいことですが、人は休息がないと健康を損ないます。そのことに気づいていながらも働き続けるなら、死に至る場合があるということです。
 また一週間のうち一日、休息をとらないと、家族という私たちにとって大切な生活の基盤となる人間関係にひびが入ります。夫は長年働いてきた会社を晴れて勇退し、これから悠々自適な老後が送れると思いきや、妻から突然離縁を言い渡さる。いわゆる「熟年離婚」というものを最近流行語になりました。夫にとっては、晴天の霹靂、思いがけないことと思うのでしょうが、それは、長い年月をかけて積み重ねられてきたもので、休息をとらず家庭を顧みなかったことから、夫婦関係が修復不可能な状況に陥ってしまっているのです。
 親子の関係においても同じことが言えます。「お父さんは、今、自分の子供が何に興味を持っているか、勉強をさておいても夢中になっているものが何であるか知っているでしょうか」。そんなことも知らずに、ただ「勉強しろ」を連発していないでしょうか。それでは父子の心がどんどん離れていっても致し方のないことです。

               (五)
 人は一週間働けば一日休むように神によって造られているのです。その創造の原理を無視すれば、体や人間関係に問題が生じることは当然のことなのです。
 日曜日に、午前中は少し寝坊してゆっくり休む。午後は、妻や子供と一緒にショッピングに出かけたり公園で遊んだりする。夫として父親として満点だと思います。子供の相手をすることは疲れると思われがちですが、そこには仕事とは違う疲れがあり、心のいやしがあります。家族とゆっくり過ごすことがもっとも人間らしい営みで、そこに人としての喜びや幸いを感じることができるのです。どんなに仕事で成功しても家庭において恵まれていなければ、真の幸いは得られません。
 さて、今朝のお話の題は、「日曜日は教会へ」です。もし、皆さんにとって休みが日曜日だけであるとすれば、家族のことがありますから無理難題なことかもしれません。しかし、皆さんに是非ともお勧めしたいことは、日曜日には毎週教会においでいただきたいということです。週休二日であれば、土曜日を家族デーとし、日曜日は、やはり家族皆で教会にお越しいただきたいのです。

               (六)
 1927年に大西洋無着陸横断飛行を成功させたリンドバーグ大佐の妻、アン・モロー・リンドバーグは、出版したエッセーの中に次のようなことを書いています。人は誰でも何らかの肩書きとそれに伴う責任と仕事を負って生きています。家庭は私たちにとってかけがえのない憩いの場ですが、それでも取り外すことのできない肩書きを人は担っています。それは、女性であれば、妻であること、母親であるということです。しかし、その取り外しようのない肩書きを外してくれる場所があります。それは教会です。日曜日に教会に行き、そこで行われている礼拝に出席するのです。その時、私たちは創造された時のありのままの姿で創造主の前に立ち、そのお方の前に、いっさいの肩書きと重荷をとり降ろすことができるのだと、リンドバーグ夫人は語っています。
 私たちは、創造された時のありのままの姿で神の前に立ち、聖書のみことばによって神のいのちの息吹を吹き入れられ、創造主である神に「この一週間、あなたはよく働いた」と労をねぎらわれ、心身共に創造主の腕(かいな)の中に憩うのです。これこそが真の安息です。
 礼拝は朝10時30分からですが、なかなかそうした時間においでになれない方は、夕方6時から夕拝(夕方に行われる礼拝)があります。少し夕食を早めに済ませ、あるいは夕拝後に外食するか、そのような工夫をして是非、家族でおいでいただきたいと思います。

               (七)
  すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
   わたしのところに来なさい。
    わたしがあなたがたを休ませてあげます。


 あなたには、このキリストの言葉が聞こえるでしょうか。
 キリストは、あなたのために十字架にかかられました。十字架は、古代ローマの時代に創案されたもっとも残酷な死刑法です。2、3年前、俳優メルギブソン氏が「パッション(受難)」という映画を製作しましたが、6時間に及ぶ十字架におけるキリストの苦悩が描かれています。
 キリストは鞭打たれて背中がザクロのように割れ、血がほとばしり出ました。頭には茨で編んだ冠がかむせられ、その上からこん棒で殴られ、鋭いとげはこめかみや額、さらには目に食い込みました。キリストは荒削りの十字架の上に寝かせられ、その手と足に太い釘が打ち込まれました。十字架の横木にロープをかけて引き上げ、予め掘られた穴に十字架の縦木をドスンと入れた時、全身の重みが両手両足にかかり、電気のような衝撃が全身に伝わりました。そして死ぬに死ねないまま、長時間激しい痛みの中にさらされるのです。人々は十字架を仰ぎ、ののしりました。「おまえが救い主なら、即刻十字架から降り、自分自身を救うがよい」。そのように愚弄する人々を前にして、キリストは天を仰ぎ「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈られたのです。
 私は、このお祈りが私のためにささげられた祈りであることをいつも思うのです。あの時、キリストを十字架にかけ、あざ笑ったのは自分自身であるということです。 いつ、私はそのようなことをしたのでしょうか?それは、言葉で他人を傷つけた時です。友達のように見せかけて友人を自分の利得のために利用した時です。その罪がキリストを十字架につけたのです。そして、神によって造られ、神によって生かされているのに、神を畏れ、神を認めようとしない、自分独りで生きているかのように思い込んでいました。神を無視して生きていながらも、こうして平穏無事にいられたのは、キリストの十字架とこのとりなしの祈りがあったからです。そうでなければ、即刻滅ぼされていたです。それにもかかわらず、神も十字架も知ろうともしなかったことが、キリストをあざ笑う行為に等しいことなのです。
 先ず、あなたの罪の重荷をこの十字架の前にとり下ろしましょう。そして、神の前にいっさいの重荷をとき下ろしましょう。神はあなたに、今日、真の安息を与えられるのです。