礼拝のお話し(2023年1月)要約

 

1月29日  影山光牧師
失望から立ち上がる」 
       聖書(新改訳)  ヨハネの福音書 20章11-18節(中心 17節)

 ☆イエス様を信じて神の子とされた私たちは、この地で福音を伝える使命が与えられています。しかし、友人や家族、大切な人に福音を伝えたいと願っても道が開かれず、失望して「もう無理だ」と諦めてしまうこともあるのではないでしょうか。この箇所には、主イエスがマグダラのマリアにご自分の復活を宣べ伝えさせるため声をかける姿が描かれています。この時マリアは失望の只中にいました。なぜ主イエスは信仰に燃えている人ではなく、失望の只中にいる人に声をかけられるのでしょうか。それは見える物に望みを置けない時こそ、ただ神に望みを置くことができるからです。
 ☆また、このヨハネの福音書において、主イエスはいつも「わたしの神」や「わたしの父」と仰り、「わたしの神またあなたがたの神」と仰ることは一度もありませんでした。しかしここでは、弟子たちにとっても「神であり父である」とはっきり仰っいました。それは十字架と復活の御業を経て、主イエスを信じる者はもはやただの弟子ではなく、神の子としての特権が与えられたからです。私たちの伝道の根拠は、私たちの信仰の確かさではありません。神の救いの確かさです。主イエスはご自分を裏切ってしまった弟子に「しっかり信仰を持て」と伝えたのではなく、「あなたは神の子となる特権を得たのだ」と福音を伝えました。
 ☆マリアが主の復活を弟子たちに伝えても弟子たちはすぐに主イエスの復活を信じることはありませんでした。しかし、神は伝えた福音が確かなものであることを後に明らかにされたのです。私たちの伝道も、伝えたその日に人が救われるとは限りません。しかし、後に神ご自身が私たちの伝えた内容が本当であると、明らかにしてくださるのです。人間の言葉の説得力ではなく、神の御霊の現れを待ち望みつつ、私たちは宣教に出て行きましょう。

1月22日  佐藤義則牧師
主のうるわしきを見る」 
       聖書(新改訳)  詩篇 27篇1-4節(中心 4節)

 ☆悪らつな敵の奸計や攻撃にあっても恐れることはない。主なる神が私たちの光となり、救いとなり、命の砦となってくださるからだ。絶望の渕に追い込まれても、主を信じるなら「なお頼むところがある」(3節)。だから、一つの事を願う。それは神ご自身であり、目には見えないが、目で見るよりも確かな神の臨在である。
 ☆「主の家に住む」とは、週に一度、日曜日(主日)に教会に来て神とお会いし、神を礼拝するということである。そして、毎日の生活の中で、朝あるいは夕に、神と共に過ごす時間を持つことである。それを「デボーション」と呼んでいる。“Devotion” (献身)とは、生ける主との交わりのためにこの世との関わりをある一定の時間遮断して、心と体と時間を神にささげ、主との交わりに専念、没頭、集中することである。聖書通読箇所を読み、祈って神と交わる。
 ☆これを一生涯持続してゆくための秘訣は、楽しいもの、慕わしいものとすることである。楽しい、慕わしいものとなるためには、この「主のうるわしきを見る」という経験をすることである。主は、この世でもっとも麗しい明けの星、谷間の百合、シャロンの花にたとえられる。そのような主とお会いする、その臨在に触れること、それが「主のうるわしきを見る」という経験である。
 ☆「主を尋ねきわめること」、それは神とお会いし、神からみ言葉をいただくまでは席を立たないことである。主とお会いせずして、一週間が始められず、一日を送ることができない。そのような気迫をもってこの一年を過ごしたい。

1月15日  影山光牧師
主イエスは救い主」 
       聖書(新改訳)  ルカの福音書 19章1-10節(中心 10節)

 ☆10節には、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」とあります。人の子とは、イエス様ご自身のことです。つまりここでイエス様は、「私は失われた人を捜して救うために来た」と仰いました。失われている人ってどんな人を指す言葉でしょうか。「失われている」という言葉は、失った方がいて初めて成立する言葉です。これは神から失われた人ということです。この世界を存在させ、自分自身を存在させた神様から失われた人間。それが、イエス様が救いたいと願っている人です。
 ☆では、神から失われている人とはどのような人でしょうか。それは自分を創造された神から離れているために、自分の生きる意味と喜びを見失ったまま生きているという状態の人です。人間は愛されるために生まれ、愛するために生かされています。しかし、その神が創造された目的から外れて生きている人こそ失われた人であり、聖書はそのような生き方を罪と呼んでいます。罪と言えば卑劣な犯罪行為を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。しかし、原語でハマルティアという罪という言葉の意味は「的外れ」です。愛されることを拒んでいる、あるいは愛されていることを認めない。また、愛するために生かされているはずなのに誰も愛さない。ただ自分のために生きていく、自己に向かって歩んでいるその生き方を聖書は罪と呼び、まさに神が人間を創造された目的から外れている生き方であると言えます。
 ☆聖書によれば、人間は一度死ぬことと死後審きを受けることが定まっています。もし罪の生き方を続けるならば、永遠の滅びに定められてしまうでしょう。しかし、キリストは十字架で、罪に歩んだ人間が受けるべき罰を全て肩代わりしてくださいました。この福音を信じる者は神の子どもとなり、永遠の命を受けるのです。また、信仰を告白したときに注がれる聖霊によって、魂が新しく生まれ、真実の愛に生きる力が与えられ、生きる意味と喜びがその人生に回復するのです。あなたも信仰を告白し、この真実の命に生かされる恵みを体験してみませんか。

1月8日  影山光牧師
信じて歩み出す」 
       聖書(新改訳)  ヨハネの福音書 20章1-10節(中心 9-10節)

 ☆ここには、空の墓を目撃した三人の弟子の反応が記されています。マグダラのマリア、ペテロ、ヨハネです。この三人に共通するのは、主イエスが復活された空の墓を目撃したものの、その出来事が聖書と結びつかず、復活の希望を喜ぶに至らなかったという点です。この書の著者であるヨハネは9節にて「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」とまとめています。後に、聖霊によって聖書とキリストの復活の出来事が結びついた弟子たちは、永遠の命の希望に生かされていきました。しかし、この時はまだ試練の中にいたのです。
 ☆私たちにも空の墓のような、すぐには何が起こったのか理解できないことがあります。復活のキリストがすぐに声をかけてくださったら良いのに、空の墓だけが見えているという信仰の途上です。復活という素晴らしいことがすでに起こっている、しかしそれが見えない。主が共におられるのにむしろ困難だけが見える、そんな試練の時です。
 ☆私たちの人生には、困難や試練があります。空の墓の前に立ち尽くすような虚しい日々が続き、祈っても泣いても叫んでも状況が変わらないこともあるものです。しかし、そのような時にこそ、静かにその現実の前にたたずんで、語り掛けてくる聖書の言葉に耳を澄ませましょう。何故なら、復活のキリストは、試練の墓も破り困難をも祝福に変えてくださるからです。困難にしか見えない信仰の道は、復活のキリストに続く道なのです。ですから試練にあっても慌てずに、その時を信じて待ち望みましょう。困難は信仰を成長させ、試練を通して私たちの人格は聖められるのです。

1月1日(元旦礼拝)  影山光牧師
光の武具を身につける」 
       聖書(新改訳)  ローマ人への手紙 13章11-14節(中心 12節)

 ☆「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」このローマ人への手紙13章12節の言葉は、2023年度の年間聖句になります。ここに「武具」という言葉が出てきます。クリスチャンとしてこの世界を生きるなら、それに相応しい装いがあると聖書は言っています。この「光の武具」とはキリストを信じる者の新しい生き方を示し、「身につけよう」との勧めは、新しい生き方を習慣とすることを意味しています。
 ☆私たちが生きている時代は、刻一刻、キリストの再臨に近づいています。主イエスは初め、処女からお生まれになりました。そして、この世の終末には雲に乗りラッパの響きと共に、再びこの世に現れます。その時、キリストを信じている者は新しい天と新しい地を受け継ぐのです。逆に悪魔サタンにつくものは、永遠の滅びに投げ入れられます。このキリストの再臨の時こそ、この世の暗きは一掃されて、すべてが真昼のように明らかにされるのです。
 ☆このことは真理です。主イエスは、天地が滅び去っても神の言葉は変わることはないと言われました。ですからマタイの福音書24章に記されているしるしと共に世の終わりは必ずやってくるのです。このことを先に知った者として、クリスチャンは伝道します。
 ☆そして終末に向けて闇はいよいよ深くなり、人々はいよいよ自己中心的な生活を送るようになります。「遊興、酩酊」に見られる飲食の分野における自己中心、「淫乱、好色」に見られる性的分野の自己中心、「争い、ねたみ」に見られる人間関係における自己中心です。主イエスが再び来られた時に、光に照らされると恥ずかしいような生き方を捨て、神と隣人への愛に生きようではありませんか。それこそ光の生き方であり、終末に向かうクリスチャン信仰を守る武具なのです。

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