礼拝のお話し(2023年3月)要約

 

3月26日 佐藤義則牧師
主の愛と洗足」 
       聖書(新改訳)  ヨハネの福音書 13章1-17節(中心 1節)

 ☆「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」(1節 口語訳)。主は十字架にかかられる前夜、弟子たちと共に過ごす「最後の晩餐」に臨むにあたって、弟子たちの足を洗われた。ここに最後まで愛し通された主の姿を見る。さらに「最後まで愛し通す」という言葉について三つの意味を言及してみたい。(1)世の終わりまで(マタイ28:20)。感染症パンデミック、地震、気象災害、戦争・・・世の終わりが近いことを痛感する。これからどんなことが起こるのか、私たちにはわからない。しかし何が起ころうとも、私たちに対する神の愛、主の愛は変わらない。主は共においでくださる。(2)この地上で息を引き取り、御国に行き着くまで。神の恵みといつくしみは絶えることがない。死に至る時も、息を引き取った後も、御国に行き着くまで主は私たちに伴い導かれる。(3)人間関係の最後まで。この時、イスカリオテのユダの足も洗われた。裏切りは人間関係の最後である。「あなたとの関係はもう終わりだ」と言われるような事態に至っても、主は捨てられない。あなたを諦めない。必ず立ち返ることを信じておられる。
☆主は私たちの足を洗われる。私たちに仕え、私たちが犯す罪をその都度赦しきよめてくださるのである。そのような愛と赦しを受けて、今日の私たちがある。それ故、私たちも人に喜んで仕え、人のあやまちを赦し受け入れる者でありたい。そのことによって、心が豊かにされ磨かれる。自らが神にいやし生かされ、神の愛が私たちのうちにあふれてゆくのである。

3月19日 影山光牧師
神の試練と栄光」 
       聖書(新改訳)  コリント人への手紙第一 10章12-14節(中心 13節)

 ☆「試練」は神から来るものです。神は、試練によってわたしたちの目を神に向けさせ、神に信頼させようとなさいます。多くの人は試練を通して信仰に導かれたり、信仰を成長させたりしています。それ故に聖書は、試練とは神の栄光が現される時であると教えています。
 ☆神は、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」と約束してくださっています。わたしたちは、試練にあうとき、どこにも出口のない洞穴に投げ込まれたように感じてしまいます。しかし、実際は違います。試練は洞穴ではなく、トンネルです。忍耐深く進んでいくなら、そこには必ず出口があるのです。聖書が言う「脱出の道」というのは、試練から「逃げ出す」ということではありません。それは、試練の向こう側にある大きな祝福への出口です。試練を通り抜けたその先には、もっと大きな祝福が待っているのです。
 ☆イエス様は「わたしたちを試みにあわせないでください」と祈るよう教えてくださいました。そのように祈っていても、試練はやってきます。どうせ試練に会うのなら、「試みに会わせないでください」などと祈っても意味がないのでしょうか。決してそうではありません。この祈りは「耐えられない試練に会わせないでください」と試練の只中で神を呼ぶ祈りでもあるのです。そして、神の約束の確さに縋って祈る時、私たち試練によって弱り果てたり、自暴自棄になったりすることから救われ、むしろ、神のご真実やあわれみを確信することができます。私たちは試練の中でこそ、神の御名を呼びましょう。

3月12日 影山光牧師
網は破れなかった」 
       聖書(新改訳)  ヨハネの福音書 21章1-14節(中心 11節)

 ☆主は信仰者として、神に従う生涯に挫折していた弟子たちに再出発の機会をお与えになりました。主が用意された舞台は、初めに弟子たちと出会ったガリラヤ湖沿岸でした。
 ☆主は、本来真夜中の収穫を約束されている手網漁において、真夜中には一匹たりとも収穫をお与えになりませんでした。代わりに復活の主イエスが遣わされ、日が昇っている時間帯に大漁をお与えになりました。そしてこの御業は弟子たちに信仰の原点を振り返らせました。弟子たちが初めにイエス様と出会った時、「このお方に従って行こう」と決心したきっかけこそが、この日中の大漁という奇跡であったからです。
 ☆恐れをもってただ従順に従っていた初めの愛を弟子たちは忘れていきました。イエス様を王として担ぎ上げ、自分が大臣になることばかりを考えるようになり、そればかりか、互いに争うようにさえなった弟子たちは、十字架に向かうイエス様を捨てて逃げてしまったのです。この大漁の御業はペテロたちが網を捨ててイエス様に従った初心を思い起こさせました。そして、聖書は「網は破れなかった。」と記しています。それは、ペテロたちが弟子として召された時(ルカ5:1-11)には起こらなかった奇跡です。
 ☆手網漁において網の破れは致命的です。そこから、収穫の魚が溢れてしまうからです。「人間を獲る漁師になる」と言っていただいて、信仰をもって従ったものの最初の決心は破けたのです。しかし、挫折し自身を失った弟子たちに示されたのは日中の大漁だけではなく、破れない網でした。それは、もうあなたがたの信仰は破けない、という力強いメッセージです。自分には全く頼むところがないことを知った弟子たちが、初めて神だけに望みを置いて歩む人生を歩み出したのです。一日、一日、私たちは祈りをもって神により頼み、聖霊の力に支えられる信仰によって、信仰の生涯を歩ませていただきたいと願います。

3月5日 影山光牧師
信じて命を得るために」 
       聖書(新改訳)  ヨハネの福音書 20章30-31節(中心 31節)

 ☆この箇所には、このヨハネの福音書の著作目的が記されています。それは、イエスが神の子キリストであることを信じるため、また、信じる者がイエスの御名によって命を得るためです。
 ☆ヨハネはまさにこの基準に則り、イエス様が「神の子」であることを強調しました。イエス様は神の被造物ではなく神のひとり子であり、万物より先に存在し、父なる神と共に天地を創造したお方だということです。
 ☆旧約聖書を背景に持ちながら、イエス様をキリスト(旧約聖書に預言された救い主)と認めない立場にユダヤ教とイスラム教があります。彼らは、「イエスは人間であったのだから、神であるはずがない。預言者の一人だ。」と主張し、神の子であることを受け入れません。また、キリスト教異端と呼ばれるエホバ証人は旧新約聖書を正典としていますが、「イエスは神の子ではない、天使長だ。」と主張し、神の子であることを受け入れません。
 ☆しかしヨハネは、イエス様のご生涯を誕生から描かず、先在する言葉、天からこの世に来られた真の光として語り出し、全編を通してイエス様が神の子であるという真理を宣言しました。
 ☆私たちがイエス様を神の子であると信じるのは、偏に聖書が神の子であると宣言しているからです。それ以上でも以下でもありません。人間が理性で受け入れやすいようにと、神の御業を歪めて解釈してはいけません。私たちは聖書に書かれていないことをあれやこれやと想像する前に、まず聖書に書かれていることを知り、その通りですと信じるときに、命を得るのです。

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